齋藤孝著『退屈力』文春新書
p.11
消費者は、欲望を常に刺激され続け、自分が買いたいのか買いたくないのかよくわからないうちに消費を続ける。自分の気持ちで買い物をしているつもりでも、じつは自分の欲望そのものが、外からの刺激でコントロールされている状態に陥ってしまっているのだ。
p.15
必要があって、あるいは好きで情報を得ている限り、自分が主導者であり、主体は自分の側に存在する。必要な情報を得るためにインターネット、携帯電話を操作する—これは情報に対して、人間が優位に立っている状態だ。しかし、それがアウト・オブ・コントロールの状態、すなわち情報のほうが優位に立って人間を浸食する状況が現在進行している。
p.21
できるだけ主体的な努力をしないで、安直に刺激を得る方法、それが薬物なのである。逆に言うと、人間はそういう意味では、脳の快感に非常に弱いということを示している。
p.71
明らかに退屈に感じることを我慢するのが「退屈力」なのではない。傍から見れば退屈に見えるようなことの中に、当人が退屈を感じずに喜びを見いだしていく力、それが「退屈力」である。
p.72
最初退屈だったものの中に、自分から意味を見いだして、それを楽しんでしまうということが起こると、それはもはや退屈ではなくなる。そこに、外からすごい刺激が与えられているわけではないというのがポイントだ。だから、「退屈力」とは、新たな外部からの刺激を必要としないあり方。強い刺激を次々に大量に浴びなくても、少しの刺激でも長く楽しめるということなのである。
p.103
「多少とも単調な生活に耐える能力は、幼年時代に獲得されるべきものである。この点で、現代の親たちは大いに責任がある。彼らは子供たちに、ショーだの、おいしい食物だのといった消極的な娯楽をたくさん与えすぎている。」
(バートランド・ラッセル)
p.104
「幼年時代の喜びは、主として、子供が多少の努力と創意工夫によって、自分の環境から引き出すようなものでなければならない。」
(同上)
p.105
「ある少年が娯楽と浪費の生活を送っている場合は、建設的な目的が彼の精神の中で芽生えるのは容易ではない。なぜなら、そういう場合は、考えがつねに次の快楽に向いていて、遠いかなたにある達成に向かわないからだ。」
(同上)
p.153
「なまじ知識があると生の感動が邪魔される」といったもっともらしい言葉を聞くことがある。しかし、私の意見は逆だ。知識があるからこそ感動が生まれるものが圧倒的に多い。本当の価値、すごさ、有難みは、勉強をし、深くその世界を知るほどに増してくる。感動と勉強を対立させて、勉強不要を唱える無責任な論に私は怒りを感じる。
p.164
現在は、なかなか我慢をしきれなくて、最終的な成果のところだけを手に入れたいという人が非常に増えてきた。努力しないで面白くやって、そで結果だけつかむことはできないかと発想する人が増えている。しかしそれでは、退屈さや、ある種のトラブル、困難に立ち向かう心の構えができない。困難に向き合う心が鍛えられないのである。
p.168
人というのは、易しくて、わかりやすい入門的なものから始めて、中ぐらいのレヴェルのものに接し、最後に最高レヴェルのものへ達しようと考えがちだ。
(中略)
もちろんある程度段階を踏む必要はある。しかし、芸術的完成やものの価値を見抜く眼力は、最高のものによって磨かれるとゲーテは言う。いくら中級品に接していても、能力や感性は磨かれない、最高レヴェルのものに接することによてのみ、それは磨かれるのだと。
p.212
一見に退屈に思える作業の果てにつかんだ知的感動は、私にとって人生を支える力となった。「退屈力」は、「つまらないことでもガマンしてやれ」ということではない。「地味な作業を積み重ねることで技をつかめ、本物の感動を手にしろ」ということだ。
最近私が考えていることに通ずる部分が多い著作でした。
著者も指摘しているように、テレビ、ゲーム、インターネットなど、私たちを四六時中刺激してくる媒体で社会はありふれているわけですが、よっぽど気をつけないと自分がとる行動がどんどんとこれらへの「反応」ばかりになってしまう。自分が何を欲しているのか、どう考えているのか踏まえたうえでの行動がどんどんと減っていってしまいそうです。
そういう状況の中、
- 「反応」ではなく、自分自身で考えたうえでの行動をとっていきたい。
- やはり主体的に物事を考えている人を仲間としたい。
- 社会の中で行動するにあたり、主体的に行動している人を応援するようなことをしていきたい。
なんてことを考えています。