ボブ・プロクター著『宇宙を味方にしてお金に愛される法則』きこ書房

p.65

ここで覚えておいてほしいのは、潜在意識は考えたり判断することはないという点です。潜在意識はイメージをそのまま形にするだけです。「お金持ちになりたい」と思うだけでは、いったいいくら欲しいのか明確でないため、潜在意識はそれを形にしようがないのです。

齋藤孝著『自分を活かす極意』マガジンハウス

p.33

でもこれは実際にやってもらえば実感できると思うけど、やっぱりさっき自分の言った言葉を相手が引用して喋ってくれると、純粋に嬉しいんですよね。ああ、自分の言った言葉が無駄じゃなかった、ちゃんと聞いてもらえた…ってね。それが本来、会話の作法なんじゃないかな。

p.62

私は違うスタイルとスタイルがぶつかり合い、互いに磨き合う社会がいちばん楽しい社会だと思っている。皆が同じような能力を持ち、同じようなスタイルの生き方をするのではなく、それぞれがクセの技化を通したスタイル形成を前面に押し出していけば、社会全体の活力も増し、ストレスも減るにちがいない。

p.65

初心者には、基本を身につけた状態の経験はないわけだから、上級者への信頼が、ねばり強さの支えになる。上級者が実際にやってみせて、初心者との技の熟練度の違いを見せつけることによって、技への初心者の「あこがれ」は高まる。
まずは、「あこがれ」を育て、そして、何が「基本」であるか、必要な「技」は何なのか、をはっきりと認識することが、ねばり強さの基礎になる。「技」を身につけるためには、一〜二万回の反復練習が一つの目安になると言われている。

p.105

このように、まず戦略的に「自分のスタイル」を定めたうえで、必要な技術を逆算してい練習するという「勝利からの逆算法」とも称すべき思考法は、スポーツだけではなく、どんなビジネスの場にも通用する普遍的なものでしょう。

勝間和代著『読書進化論』小学館101新書

p.30

繰り返しになりますが、ウェブ・サーフィンで得られる価値・情報に関しては、私は書店で代替できると思っています。もちろん、ウェブ・サーフィンの際、キーワードを入力して、検索エンジンを使って、いろいろな新しい情報を仕入れるのはいいと思います。しかし、私にとってウェブ・サーフィンの価値は、テレビのザッピングとほとんど同じなのです。テレビやネットではコンテンツの幅は広げられますが、深みを得るのは難しく、カバーをしている範囲は広いけれども、質の高さについては保証できないという欠点があります。気になったものを絞り込みたいとき、やはり2008年夏の現在においては、本しかありません。

p.31

ウェブの検索と読書は相互補完的なものです。私は、ネットは主にコミュニケーションのために使い、コンテンツの体系だった獲得については本を使います。ただし、コンテンツ獲得のためにかかる時間効率を考えると本はあまり効果的ではないため、ネットを補助的に使うようにしています。

p.31

「ある本を買う」と決めているときには、ネット書店はとても便利なのですが、「買おうかどうしようか迷っている」というときには、リアル書店でチェックをするという「場合分け」が必要になります。

p.56

人間はうまくできていて、人の体験なのか、自分の体験なのか、情報として手に入れると混ざっていってしまう傾向があります。結果、人の体験でも、読書により自分が体験したような意識になるので、そこからアイディアも出てくるし、自分から動けるようになります。

鴨志田晃著『消える中間管理職』アスキー新書

p.116

私がこの本で伝えたいことは、そうした格差社会の問題やその処方箋についてではありません。
私が格差社会論に距離をおきたいと考えるのは、格差論にある「悪いのはすべて社会だ」という隠れた依存主義が潜んでいるように感じるからです。
(中略)
もちろん、こうした格差社会について政治や行政の立場から議論することの意味を否定するものではありません。いや、むしろ積極的に取り組むべきでしょう。
しかし、どのような理想的な社会になろうとも、最後は「自分がどうあるかだ」と腹を括るべきなのは、今も昔も変わらない事実なのです。

p.122

独創的研究を生み出すには、「独自の視点から今まで誰も問うことがなかった本質的な課題を見つけ出し、定義すること、そしてそこに全く新しい可能性が開けていることを提示することが重要」
(石井裕氏「競創の拠点 MITレポート」より)

p.123

知識価値を組織で創造してゆこうとするならば、組織を率いるリーダーが、「この組織のミッションは何で、生み出すべき知識価値とは何か?」という問いに答えを用意しておくことが必要になります。

p.123

「知識労働の生産性の向上を図る上で問うべきは、何が目的か、何を実現しようとしているか、なぜ行うかである」
(ピーター・ドラッカー『プロフェッショナルの条件』より)

Peter Merholz, Bandon Schauerら著『Subject to change』オライリー・ジャパン

p.3

現代の市場で成功する鍵は、顧客との関係を根本的に改めることにある。顧客を消費者であると考えるのをやめ、人間として関わり始めると、顧客のニーズや要求に応えるためのまったく新しいチャンスが見えてくる。

p.5

イーストマンは、自分がみんなに届けたい「体験」に注目すれば、このロールフィルムが革命を起こせることに気づいていた。それがイーストマンの宣伝文句に込められた体験、「あなたはボタンを押すだけ、あとはおまかせください」である。

p.6

アジアへの生産シフトによって製造コストは急落した。機能や特徴を追加しても価格が大きく上がることはなく、消費者は多くのことをする製品が良い製品であると考えるようになった。しかし、今やこうした信仰体系が極限状態に達しつつある。消費者が、どこも壊れておらず正しく動作している商品を、複雑すぎて使えないからといって返品する、といったことが頻繁に起きるようになったのだ。

p.14

何十年もの間、企業はライバルに対する優位を保つため、あるいは差を広げるために、テクノロジーや機能、最適化の手段を追い求めてきた。しかし、この種のことだけに投資することの価値はもはや存在しない。自社の製品やサービスによって顧客が得る体験こそが、真の差別化要因であり、この変化し続ける世界で、探求して取り入れるべき戦略なのである。

p.16

他のみんなが習得したことの上達を目標にすることを戦略とは呼ばない。戦略とはトレードオフ−意識的にライバルと違う戦術を選ぶことだ。戦略とは、何かにノーということによって他人より優位に立つことを意味する。そして、この戦略的トレードオフの結果が、顧客の心の中で明確に際立つ製品とサービスであり、その価値ある違いは簡単には真似ができない。

p.21

顧客が気にするのは体験だけである。これを念頭に置いておくことは、製品チームにとっては難問であり、だからこそ多くのチームが製品の詳細な技術的なことで脱線するのだ。

p.72

理想的な顧客体験を届けるためには、単に商品を売るだけでなく、継続的に顧客と関係を築く必要があることにイーストマンは気付いていた。これはイーストマンがコダックカメラを一つの製品としてではなく、サービスの一要素として考えていたことを意味する。

p.121

デザインとイノベーションに関する大きな誤解の一つに、すばらしいアイディアは誰か賢い人の頭に降って沸き、すぐにそれが答えに変わるという考えがある。スコット・バークインが著書『イノベーションの神話』の中でこの神話を暴いている。

歌田明弘著『ネットはテレビをどう呑みこむのか?』アスキー新書

p.9

ネットという直接民主主義的な装置によって、ポピュリズムは確実に増幅される。もう10年すると、それがどういうことに行き着くのかは、さらによく見えているかもしれない。とはいえ10年後に、社会に致命的なダメージをあたえていなければよいのだが。

p.87

見返りを求めることなく制作し喜んで無料公開する大量の人がいて、そうしたコンテンツを集積したサイトが人気が出るというウェブ2.0の状況からすれば、ネットでは、コンテンツの制作側よりもコンテンツを流通させる企業の方が立場が強くなるのは当然だろう。

p.212

手間ひまのかかる一次情報の社会的価値と経済的価値の乖離はどんどん大きくなっている。社会的価値は変わらないものの、経済的価値が急速に下落し始めた。この矛盾は解消されるどころか、これからますます顕著なものになっていくだろう。

p.241

ネットがより浸透しパワーを増したとき、情報発信者でもある読者の「圧力」はいよいよ増す。しかも、多数派が常に正しいとは限らない。よく言われるように、間接民主主義はまだるっこしい感じがする一方、首長を直接選べる制度と比べて、国民の一時の感情によって大きく動くことはなく安定性が高いと考えられる。クッションが効くわけだが、ネットという直接民主主義的な場にあがったマスメディアは、仮借なく、そしてときに感情的な読者の反応にダイレクトにさらされることになる。経営基盤さえ危うくなりかねないこうした事態に、ほんとうにマスメディアは耐えられるのだろうか。

p.246

メンバー同士がコミュニケーションを図り、お互いから学ぶことで集団の利益になる場合もあるが、過度に密接なコミュニケーションは逆に集団の賢明さを損なう。
(スロウィッキー)

p.250

これまでのメディアは、権力といかにして戦うかが大きなテーマだった。しかし、これからはそればかりでなく、強力な情報発信力と影響力を持ち、感情的な反発もときに示すネット世論とどういう距離をとるかが、メディアでも個人の情報発信者でも同じぐらい重要なことになってきつつあるのではないか。

エリック・シンク著『革新的ソフトウェア企業の作り方』翔泳社

p.9

我々が潜在的に年間3百万ドルになるマーケットを検討しているとしよう。大きなベンダにとってはこのような小さなマーケットは追いかけることを検討すらできない。彼らの時間に値しないのだ。しかし年間3百万ドルの収入というのは、社員が15〜30人の小さな会社であれば十分支えることができる。このニッチにはチャンスがあり、誰かがそこに素敵な会社を作ることだろう。

p.10

それから、小さな会社は優れた製品によって顧客にサービスするという基本に集中しやすいということがある。ベンチャーキャピタルや4半期ごとの決算に対する期待といったことにより気を散らされることがない。よく見もしないで小さな会社を軽視したりしないことをお勧めする。

p.61

読書というのは自分の問題の答えを見つける場所ではない。そうではなく、読書は自分で答えを見つけるのに役立つバックグラウンドを身につけるための方法なのだ。

p.71

私が学んだことの1つは、小さなISVはプログラマを雇うべきではないということだ。
(中略)
“プログラマ”(コードを書くことに特化した人)ではなく、必要なのは”開発者”(製品の成功のためにたくさんの面で貢献する人)なのだ。

p.75

そのような広範なスキルセットを持った開発者は簡単には見つからないのでは?
そのとおり。本物の開発者というのは貴重なものだ。たぶん外から雇ってくることはできない。自分のところにいるプログラマたちが開発者へと変わっていけるように手助けしてやる必要がある。
ひとたび彼らが開発者へと変わったなら、彼らを会社に引き留めておくために多大な努力をする必要があるだろう。そうしなければ、彼らは大会社でマネージャになるか、あるいは自分の会社を立ち上げることだろう。

p.145

ジム・バークスデールの競合選択の考え方が私は好きだ。バークスデールというのはNetscapeのCEOだった人だ。彼は、一番良いアプローチは「大きくて無能な」競合を見つけることだと言っている。

齋藤孝著『退屈力』文春新書

p.11

消費者は、欲望を常に刺激され続け、自分が買いたいのか買いたくないのかよくわからないうちに消費を続ける。自分の気持ちで買い物をしているつもりでも、じつは自分の欲望そのものが、外からの刺激でコントロールされている状態に陥ってしまっているのだ。

p.15

必要があって、あるいは好きで情報を得ている限り、自分が主導者であり、主体は自分の側に存在する。必要な情報を得るためにインターネット、携帯電話を操作する—これは情報に対して、人間が優位に立っている状態だ。しかし、それがアウト・オブ・コントロールの状態、すなわち情報のほうが優位に立って人間を浸食する状況が現在進行している。

p.21

できるだけ主体的な努力をしないで、安直に刺激を得る方法、それが薬物なのである。逆に言うと、人間はそういう意味では、脳の快感に非常に弱いということを示している。

p.71

明らかに退屈に感じることを我慢するのが「退屈力」なのではない。傍から見れば退屈に見えるようなことの中に、当人が退屈を感じずに喜びを見いだしていく力、それが「退屈力」である。

p.72

最初退屈だったものの中に、自分から意味を見いだして、それを楽しんでしまうということが起こると、それはもはや退屈ではなくなる。そこに、外からすごい刺激が与えられているわけではないというのがポイントだ。だから、「退屈力」とは、新たな外部からの刺激を必要としないあり方。強い刺激を次々に大量に浴びなくても、少しの刺激でも長く楽しめるということなのである。

p.103

「多少とも単調な生活に耐える能力は、幼年時代に獲得されるべきものである。この点で、現代の親たちは大いに責任がある。彼らは子供たちに、ショーだの、おいしい食物だのといった消極的な娯楽をたくさん与えすぎている。」
(バートランド・ラッセル)

p.104

「幼年時代の喜びは、主として、子供が多少の努力と創意工夫によって、自分の環境から引き出すようなものでなければならない。」
(同上)

p.105

「ある少年が娯楽と浪費の生活を送っている場合は、建設的な目的が彼の精神の中で芽生えるのは容易ではない。なぜなら、そういう場合は、考えがつねに次の快楽に向いていて、遠いかなたにある達成に向かわないからだ。」
(同上)

p.153

「なまじ知識があると生の感動が邪魔される」といったもっともらしい言葉を聞くことがある。しかし、私の意見は逆だ。知識があるからこそ感動が生まれるものが圧倒的に多い。本当の価値、すごさ、有難みは、勉強をし、深くその世界を知るほどに増してくる。感動と勉強を対立させて、勉強不要を唱える無責任な論に私は怒りを感じる。

p.164

現在は、なかなか我慢をしきれなくて、最終的な成果のところだけを手に入れたいという人が非常に増えてきた。努力しないで面白くやって、そで結果だけつかむことはできないかと発想する人が増えている。しかしそれでは、退屈さや、ある種のトラブル、困難に立ち向かう心の構えができない。困難に向き合う心が鍛えられないのである。

p.168

人というのは、易しくて、わかりやすい入門的なものから始めて、中ぐらいのレヴェルのものに接し、最後に最高レヴェルのものへ達しようと考えがちだ。
(中略)
もちろんある程度段階を踏む必要はある。しかし、芸術的完成やものの価値を見抜く眼力は、最高のものによって磨かれるとゲーテは言う。いくら中級品に接していても、能力や感性は磨かれない、最高レヴェルのものに接することによてのみ、それは磨かれるのだと。

p.212

一見に退屈に思える作業の果てにつかんだ知的感動は、私にとって人生を支える力となった。「退屈力」は、「つまらないことでもガマンしてやれ」ということではない。「地味な作業を積み重ねることで技をつかめ、本物の感動を手にしろ」ということだ。

最近私が考えていることに通ずる部分が多い著作でした。
著者も指摘しているように、テレビ、ゲーム、インターネットなど、私たちを四六時中刺激してくる媒体で社会はありふれているわけですが、よっぽど気をつけないと自分がとる行動がどんどんとこれらへの「反応」ばかりになってしまう。自分が何を欲しているのか、どう考えているのか踏まえたうえでの行動がどんどんと減っていってしまいそうです。

そういう状況の中、

  • 「反応」ではなく、自分自身で考えたうえでの行動をとっていきたい。
  • やはり主体的に物事を考えている人を仲間としたい。
  • 社会の中で行動するにあたり、主体的に行動している人を応援するようなことをしていきたい。

なんてことを考えています。

小川浩著『フィードがグーグルの世界制覇を阻止する!』ビジネス社

p.42

ウェブの理想は、世の中の99.99%の人には価値のない情報でも、その情報を必要とする0.01%の人へ確実にいきわたるデータベースの構築であり、実際にその方向に向かっている。

p.52

しかしながら、あまりにも簡単に誰もがウェブ上に情報を書き込めるようになった弊害もあるにはある。たとえば若い女性が書いているようなブログだと、写メールで撮影したらしい自分の笑顔の写真に添えて、一言「ウキャッ!」と書かれているだけだったりする。これを私は「ウキャブログ」と命名したのだが、こんな意味のない内容ばかりがずらずら並んでいるブログは決して珍しくない。

p.55

ブログ自体はこれからも増えていくだろうし、「ウキャブログ」が悪いわけではない。ただ、更新されてしまえばまったく無価値になり、二度と誰も見ない情報が、毎日莫大な量で蓄積されているのがいまのウェブの現状である。逆に言うと、こうした情報そのものを検索対象から省くのか、省かないのか、ということも今後は情報のSN比(シグナルノイズ=自分とは関係のない、雑音的な情報の流入)を下げることの大事な要件になるだろう。

p.154

その点、フィードは、どのような情報を発信するか、どのような情報を受け取るかの選択の権限がユーザーに与えられており、それを誰かが裏で誘導することもできない。すなわち、ユーザーがそれぞれ投票権を持っていて、自分の認めた者に票を入れることで、純粋に多くの支持を受けた情報発信者が選ばれるという、より民主的なモデルに進化する期待があることを意味している。

p.156

もともとコミュニケーションとはそういうもので、世界中のウェブサイトの中から、自分の好みのものを選ぶという多面的な広く浅いコミュニケーションの段階はウェブが適していたが、好みのものが見つかったら直線的なコミュニケーションになっていく。
いまは両方ともウェブが担っているが、ウェブは直線的な通信が苦手である。そこで、直線的な通信の分野はフィードが担当し、コミュニケーションをさらに先鋭化する方向へと向かうことになる。そしてウェブは、アーカイブとして情報をどんどん溜め込んで拡大していく方向に発展し、両者の進む道はきれいに分かれていくことになるだろう。

p.173

すると、ポータル化することによってページビューを集め、広告をとるというビジネスモデルがだんだん機能しなくなる。なくなってしまうわけではないが、ポータルの利用が低下すれば広告価値も減退する。そこで、今度はフィードに広告を載せようということになっているけれども、フィードは広告を外して見ることができる。好き好んで広告を見ている人は少ないので、広告を外して情報だけを見られるのなら多くの人がそうするようになる。いずれにしても、広告モデルはいまほどの支配的な力を持たなくなるのだ。

『WEB+DB PRESS vol.46』技術評論社

p.13

よくギークとスーツとか言って対立軸をおもしろおかしく言う人がいるじゃないですか。それは大間違いで、ギークもスーツも一緒なんですよ。単にAさんとBさんで共通のコミュニケーションのボールをもっていないだけで、どっちも優れたギークで、優れたマネージャーであれば、そこにどうにかコミュニケーションの共通するものを発見しようとするわけですよ。どっちも理解不能であるとすれば、どっちもコミュニケーションができないという悲しい現実を言ってるだけで、私はギークもスーツも対立するものではなくて、一緒に違う仕事ができるパートナーだと思っています。
(ミラクル・リナックス吉岡弘隆氏)